1982年頃、すでに関西の若手アニメーターの中で際立った存在となっていた庵野監督は、その実力を買われ、『宇宙戦艦ヤマト』のSF設定を担当して名を馳せたクリエーター集団『スタジオぬえ』に引き抜かれます。
東京に出向いた彼は、『マクロス』の原画担当として約4ヶ月間に渡り制作に参加しました。
大阪に戻ると、培った技術を活かし、『DAICON Ⅵ』を制作。
しかし、アニメ制作に没頭し過ぎ、学費未納で当時通っていた大阪芸術大学を放校処分となってしまったのでした。
83年の暮れ。
いよいよ上京を決めた彼は、カバンひとつで東京に居を移し、宮崎駿監督の門戸を叩いたのです。
今でこそ押しも推されぬ大巨匠として認知されている宮崎氏も、当時はヒット作に恵まれず、アニメの仕事が少ない時期でした。
それゆえ、『風の谷のナウシカ』は起死回生を賭けた、宮崎氏にとっても力の入った企画だったのです。
『DAICON Ⅵ』のビデオと原画を見た宮崎氏は、すぐに庵野監督の才能を見抜き、巨神兵のパートを任せることに決めます。
自他に厳しい宮崎氏が、動画経験の無い人間に原画を任せるのは、異例の事態だったようです。
巨神兵は、映画では不完全なままの姿でラスト近くに登場します。
腐れた皮膚をドロドロに溶かし、白骨化しながら熱線を吐いてオームの大群を殲滅する場面は、庵野監督の入魂の作画により、観客に強烈な印象を残しました。
しかしこの名場面の舞台裏には、一筋縄ではいかない苦労があったのです。